日光山と彦山(九州)
輪王寺宝物殿館長
柴 田 立 史
輪王寺の宝物を調べていると、遠い距離の思わぬ場所とのつながりに出会うことがあります。
このお寺の宝物の中で刀剣類はほんの数本しか無いのですが「行平(ゆきひら)」という銘の重要文化財指定の一振りがあります。平安末頃の作といわれています。
たまたま鎌倉初期の日光山を調べる必要があって、関連する宝物類を調べている中に含まれていたもので、古い解説文を読み直してみました。行平という刀工は豊後国の人で伝説の名人とされています。ですから名刀として日光山へ納められた品だと思っていました。ところが、最近出版された「日光の三神」という本には日光山にたびたび訪れて鍛刀していると書かれています。たしかに日光の二社一寺の二荒山神社にも二本納められています。北九州の刀工がたびたび日光山へ来て刀を打って納めた?刀剣の本(註1)には「豊後国行平は、平安時代九州鍛冶の中でも古い彦山の僧鍛冶定秀(さだひで)の子として生まれ、豊後国六郷満山の執行をつとめていましたが、源平二氏の九州地方争奪の争いに巻き込まれ、九州から関東の上野(こうづけ)国利根郡川湯村に流刑となりました。当時行平は年齢が40才、ここで16年間過ごしていますが、罪刑は軟禁程度であったことから、宗門の関係で日光をたびたび訪れ、信仰生活とともに鍛刀しています、行平の子定慶、その子大進坊祐慶と行光は、日光で生まれ日光二荒山の法師となりました~」とあります。行平は後に後鳥羽上皇の御番鍛冶となったと云われます。そして日光と宇都宮の間に位置する徳次郎町には昔刀鍛冶に適した鉄や粘土があった土地だと言われます。
江戸時代になると家康公の東照宮がはなやかになりますが、中世までの日光山は修験道(山伏)で知られた霊場です。九州の彦山も六郷満山も知る人ぞ知る修験の霊場なのです。また彦山には、室町末期に日光山から移り住んで彦山修験の教義書を書いて集大成させたと言われる阿吸房即伝という学僧がいたという記録があります。
さらに九州といえば、室町時代の享禄三年(1530)に筑前(福岡県)の僧昌貞が日光山へ紺紙金泥の法華経を納経しており、輪王寺に今も残されています。
廻国修行を行なった僧侶たちは、徒歩であっても距離をいとわずに、よき師を求め、教えを広めるために巡り、また勧進し、結縁することで、きびしい現世の中でも求める人がおられるならば、共に功徳の輪を拡げようと巡り歩いた人達なのです。修行にはいろいろな形があると思いますが、納経ということも仏様のおしえと縁を結ぶもので、日光山はすでに平安時代から納経所として知られたお寺でありました。
註1「下野徳次郎刀の研究」