雲外蒼天(うんがいそうてん)
輪王寺 執事長
今井 昌英
「雲の外には蒼い天が広がっている」
実を申せば、これは仏教語ではありません。中国の古典がもとになり、日本ならではの四季豊かな風土で生まれた言葉と言われます。時に私たちは晴天を願いながらも、天上から降りしきる雨や雪を、しばしば恨めしく見上げています。
ところで、歌曲「花の街」や、オペラ「夕鶴」などで知られる作曲家、団伊久麿さんは、ことのほかジメジメとした気候を好み、「湿気が逃げる」と言って浴室の窓を開けることを嫌い、高温多湿で知られる八丈島に仕事場まで作った。と、その著書『パイプのけむり』で読んだ事があります。なるほど団伊久麿作品のしっとりとした味わいは、湿気好きから来ているのかも知れません。気候の好みといえど、実に人それぞれ違うものなのだと感心するばかりです。
さて、かつて旅行で乗った飛行機でのこと、雨の空港を離陸して、雲を抜け陽光が窓からサッと差し込んだ瞬間、母が思わず「雲の上は晴れてるわ!?」と子どものように喜び、同行の家族から失笑を買ったことがありました。おそらく本人は今頃お浄土で苦笑しているでしょうが、今省みれば、その時の反応はまさしく「雲外蒼天」を実体験した時の自然な驚きだったのだと気付きます。
この雲外蒼天を仏教の「空」の捉え方で解釈すれば「暗雲も心で観ずればすなわち晴天に転ず」とでもなるでしょうか。
人生は、天気のように、自分の力ではどうにもならないことだらけです。私たちが直面している感染症拡大は、まさしくそれそのものです。今も感染の恐怖や不自由に耐えながら、世界中の一人一人が懸命に試行錯誤の努力を重ねています。
どんな鬱陶しい雨にも必ず止む時が来て、厚い雲間から眩しい陽光が差し込んで来るように、私たちの善行も、いつしか天に通じ、「蒼天」が広がる日が必ずや訪れるに違いないのです。
それを信じて、皆ともに「今」を大切に生きて行くことを希ってやみません。